せなければならない。……あ、いけない、追いせまって来た」
「え、本当で、そいつア偉い、へえ、あいつをはたいたんで、偉いなあ、大できだ! たまるかたまるか取り返されてたまるか! ナーニ大丈夫だ、逃げおわせますとも」それから人波を掻きわけたが、「ご免ください、ご免ください、忘れ物をしたのでございますよ。急いで取りに行きますので」それから背後を振り返ったが、「あ、いけない、とっ捕まりそうだ」
 二人は懸命にひた走る。女掏摸の髪の簪かんざしが夕陽をはねてピラピラとひらめき、眼のふちのあたりが充血をして、美しさと凄さとを見せている英会話 恋愛 。前こごみにのばした上半身の、胸が劇はげしく揺れているのは、乳房が踊っているからであろう。引き添って走っている男掏摸の、醜い顔には殺気がある。唇を漏れてはみ出している、反歯そっぱが犬の歯を想わせる。陽がたまって光っているからである。
 で、二人は素早く走る。
 二人の逃げ方は素早かったが、代官松の追い方は、さらにいっそう素早かった。これは当然というべきであろう。稼業が目明しというのであるから。追うのには慣れているはずである。
「『本郷の殿様』と承知の上で、懐中物をすったのであろうか? それとも知らずにすったのであろうか? きゃつらがきゃつらの残党なら承知ですったと見なさなければならない。何をいったいすったのだろう? 大事な物をすったかもしれない。とっ捕まえて絞り上げて、取った物をこっちへ取り返さなければならない」
 左手で衣裳の裾をたぐり、右手で人波を左右へ分け、「どけ! 寄るな! 御用の者だ!」で、ヒタヒタと追っかけた。
 こうして十間とは走らなかったであろう、二人の掏摸へ追いついた。

 石置き場のほうへ行くのである。
 大川を右へそれたならば、一ツ目橋となるであろう。一ツ目橋の袂たもとから、水戸様石置き場へ上がることができる。
 こうして三人を乗せたところの、燈影ほかげの暗い屋形船が、一ツ目橋のほうへそれようとした時に、一つの意外な珍事が起こった。
 浪人者の乗っている、燈火のついていない屋形船から、一本の小柄が投げ出されて、三人の兄弟の乗っている、屋形船の障子をつらぬいて、薄縁うすべりの上へ落ちたことである。
 その柄に紙片が巻きつけてある。
「私情から申しても怨うらみがござる。公情から申せば主義の敵でござる。貴殿に闘たたかいを宣するしだい、ご用心あってしかるべく候そうろう。――桃ももノ井い久馬きゅうまの息そく兵馬ひょうまより山県紋也やまがたもんや殿へ」
 紙片に書かれた文字である。兄上と呼ばれた青年の武士は、さすがにその眼を険けわしくはしたが、躊躇ちゅうちょしようとはしなかった。同じ小柄へ紙片を巻きつけ、相手の屋形船へ投げ返したが、紙片には文字をこう書いた。「心得て候。山県紋也より」と。
 以上の三回を序曲として、いよいよ本筋へはいることにする。
 その翌日のことであったが、ニヤリニヤリと笑いながら、西両国の広小路ひろこうじを、人をつけて行く人物があった。


びるへつづく、人中の丈が短くて、剣先形けんさきがたをなしている。すなわち貴人の相である。ところが口はどこにあるのだろう? そんなにもいわなければならないほどにも、唇が薄くて引き締っていた。で、一見酷薄に見える。が、左右の端に、深い笑窪えくぼができているので酷薄の味を緩和している。顎あごの中央を地閣ちかくというが、そこの窪味がきわだって深い。これは剣難の相である。がそういう欠点も、広い額、厚い垂たれ頬ほお、意志強そうないかめしい顎、そういうものが救っている。驚くべきは顔色であって、白皙はくせきに赤味を加えている、二十歳時代の、青年の顔の色そっくりというべきであった。鉄色の羽織を着ていたが、それは高価な鶉織うずらおりらしく、その定紋は抱茗荷だき中国 結婚 みょうがである。はいている袴はかまは精好織せいこうおりで仕立上がりを畳へ立てたら、崩れずにピンと立つでもあろうか、高尚と高価と粋すいと堅実とを、四つ備えた織物として、この時代の少数の貴人たちが、好んで用いた品である。さて帯びている大小であるが、鞘さやは黒塗りで柄糸つかいとは茶で、鍔つばに黄金こがねの象眼ぞうがんでもあるのか、陽を受けて時々カッと光る。
 そういう風采の人物であったが決して四辺など見廻そうとはせずに、グッと正面へ眼をつけたままで歩調あしなみ正しく歩いて来る。まさかに円光えんこうとはいわれないけれど、異様に征服的の雰囲気とはいえる、そういう雰囲気が立っているかのように、その人物が進むにつれてみなぎり流れている群衆が、自然と左右へ道をよける。で、掻き分ける必要はなく、歩いて来ることができるのであった。そうしてシトシトと歩いて来て垢離場こりばの芝居小屋の前まで来て、通り過ぎようとした時に、娘姿の例の掏摸が、例によって人波に押されたかのように、ヒョロヒョロとよろめいて出たが、ポンと「本郷の殿様」の胸へ、美しい身体からだをぶっつけたのであった。

↑このページのトップヘ